2016年8月14日日曜日

日曜礼拝

今日はわたしたち家族、
友人夫婦、そして妹夫婦
全員で7人が集まり
英語による日曜礼拝をしました。

1.賛美歌、
2.みことばを一人ひとりが朗読。
3.説教朗読
4.主の祈り
5.賛美歌
6.ディスカッション

という形をとっている。

今日の説教は
マナについて。

イスラエル人が日々マナを集めたように、
わたしたちは主が送られる
霊的な食べ物を集めるということ。

わたしたちも日々天からのパンである
みことばの善と真理を見つけましょう。

それを毎日心に取り入れ
主に祈り、導きをお願いすれば
人生の旅を無事に歩んでいける
という内容です。

みことばを読むたびに
新たな発見があります。

今日のような機会と時間を与えて下さった
神様に感謝します。




2016年7月29日金曜日

せみ

毎朝セミの声で目覚める。

夏以外は鳥の声に目覚める。

鳥に比べ、セミの声は力強い。

1週間しかない命の限りを尽くして声を上げる。

一匹なのか、10匹なのか、よくわからないほど
一匹の声が大きい。

一匹が声を出すと、他がすぐさま重なり大合唱となる。

朝夫と散歩をするが、
木の茂みはセミの天国。

そこを過ぎ去り、丘の上から下のお寺が見える。

お寺には高い木がたくさんある。

遠く離れているにもかかわらず。
そのお寺からものすごい大合唱が聞こえる。

お寺のそばはすごい音だが
会話が聞こえないほどでない。

耳にはやさしい。
どんなにうるさくても
耳にキンキン来ることはない。
丸味のある声。

収まるとほかの虫の声。

夏は虫の大好きな季節。

これを書いている間も
虫の声のBGMに耳を傾けると
夏の暑さを一瞬でも忘れさせてくれる。

ちょっと入ってくる涼しい風に
癒される。

2016年7月26日火曜日

主のみ名

先日の日曜日、礼拝があった。

神様がなぜ、神様以外の名前で
呼ばれるか。

エホバ 一人の神様として。

シャイロ 平和のシンボルとして

イエス 救い主として

主 指導者として

など、

神様のご性格を表す。

わたしたちの名前も
人によって呼び方が違うことがある。
特に家族の中で。

英語の名前には色々な呼び名があり
面白いことに、親から怒られるときは
ニックネームでなく、本名を
ミドルネームを入れて呼ばることが多いらしい。

呼ばれ方によって、受け取り方もかわってくる。


自分の名前は好きかとたずねられた。

自分の名前は生まれたときからついていて
自分には選択がなかったのに、ずっとそれで
呼ばれている。

神様だけがご自分の名前を
つけることが出来たのだ。

わたしは自分の名前は好きとはいえないし
嫌いともいえない。運命である。

わたしにとって神様は常に主である。
指導者である。

主よ、今日も一日導いて下さい。
と祈る。

2016年7月21日木曜日

真のキリスト教 欠落部分

真のキリスト教のアップロードが
188まで終わったのはよいのだが
189から235までのファイルが
開けなくなっている。
現在友人に入力をお願いして
いるが、長いので時間はかかる。
DCGという拡張子で保存してあるのだが。

今日から夏休み。

暑さで座っているのがしんどいが、
幸い、家が高台にあり、気温が
1-2度低く、夜は過ごしやすい。

夏に感謝すべきことは

夜、虫の声に癒される。

花が色とりどりに咲いて美しい。

涼しい日は気持ちがよい。

日が出るとセミの大合唱。
あ~、夏だなあと感じる。

まだまだたくさんある。






2016年7月14日木曜日

小さな礼拝

先日の日曜日、友人夫婦を招いて
小さな家庭礼拝を行った。

初めての試みだ。

賛美歌を歌い、
聖書を読み、
著作を読み、
ネットからプリントした
説教を読んだ。

新教会の礼拝に参加するのは
初めての人たちであったが
とてもよい時間を持つことができた。

「2-3人集まるところに神様はいらっしゃる」
という聖書の句があるが、
実際に皆によい流入があった。

誘ってよかった。

神様に感謝。

2016年7月8日金曜日

死を考える

母が亡くなってから
自分の死について考えることが
多くなった。

いつ
どこで
どんなふうに
逝くんだろう。

母のような痛みと苦しみの中での
死だけはいやだ・・とか。

半年たった今でも
未だに母の苦しそうな顔が
トラウマのように頭を横切る。

反対に天界で少女のように
笑顔走る母も想像する。

いずれにしてもこの世の痛みから
解放されて、幸福になるだろう。

その幸福の質と量を高めるため
日々再生に取り組まないと、と
自分に言い聞かせる。

2016年7月5日火曜日

納骨

8月27日に母の納骨をすることになった。
そのため、福島県相馬までいかなければならない。

父の墓がそこにあるからだ。

なぜか。

父が亡くなったとき、母はカトリック教会時代
購入済みだった富士の近くにある
大庭台の墓地を売り、
相馬にある教会の会員の方のご好意で
大きなお墓を建てていただいたのだ。
教会の会員が希望すれば入れるように・・・と。

家族にとっては縁もゆかりもない地ではあるけれど
教会のお墓があることはありがたいことである。

8月は妹夫婦と向かう。
母と音楽関係で一番かかわりの深かったのが
妹夫婦だと思うので。